

疑いを持つな
感激を持て
研究開発は成功を信じることから始まる。
青白きインテリは何かを始めようとすると、
すぐに疑いを持つ。
開発の極意はそういう連中をトップが外すことだ。
バカでもいい、感激を持ってやれる連中ばかりを
集めて開発を始めるべきだ。
稲盛和夫(京セラ・KDDI創業者)



灰色の時代こそ
勝負の年
先行き不透明…これを人は灰色と言う。
だが、灰色は白と黒に分解できる。
灰色の中に白を見出していくのが、真のプロ。
灰色と言われる時代こそ、勝負の年、
飛躍の年である。
小林陽太郎(富士ゼロックス元代表取締役会長)


どん底から前向きになった時
ピンチがチャンスに変わった
漁網が木綿からナイロンになったときは、
倒産やむなしで、死ぬしかないと思った。
上野駅のホームに立ったが、結局死ねず
「やるしかない」と
前向きの気持ちになった時から、
ピンチがチャンスに切り替わった。
米山稔(ヨネックス株式会社創業者)



過去の実績を捨て
生まれ変わる
本当に重要なのは、次の五十年、
百年を目指した構想だ。
企業が永遠に生き延びるには、
過去の実績を否定する勇気が必要になる。
生物界に見られる脱皮だ。
企業も、それを学ばねばいけない。
賀来龍三郎(キャノン元名誉会長)


自分には荷が重い仕事でも
奮闘するうちに効果が上がる
年が若かろうが、経験が浅かろうが、
ひとつの仕事を任されたら、
その責任を感じ努力することだ。
奮闘しているうちに事が
進み効果も上がってくる。
これが、人間としての姿であろう。
松下幸之助(パナソニックホールディングス創業者)



逆境を乗り越えた経験が
生きる力になる
逆風に見舞われたのは
一度や二度ではない。
若い時は辞めたいと思ったこともある。
しかし、どういう逆境も乗り切ってきた。
それが、生きてくうえでの力になっている。
三田勝茂(日立製作所元会長)


我々は勝負師ではない
負けのなかに意味を求めよ
競争に勝つことは確かに嬉しい。
だが我々は勝負師ではない。
負けても何が原因で負けたかを
追求することに意義がある。
本田宗一郎(ホンダ技研工業創業者)

EPISODE
「転んでも、一回り大きく─ヨネックス創業者・米山稔の挑戦」
世界的なスポーツメーカー「ヨネックス」の創業者、米山稔。
しかし彼の歩んだ道は、成功よりも試練の連続でした。
戦後すぐ、米山は漁業用の木製の浮きで事業を興します。時代は北洋漁業の黄金期。事業は順調に成長し、彼は地元の名士とまで言われました。
だが、時代は動きます。1950年代初頭、漁網は木綿からナイロンへ。浮きもまた、木からプラスチックへと急激に変化したのです。
その変化に気づけなかった…米山の主力商品は一夜にして、時代遅れの産物となりました。
注文は止まり、在庫だけが積み上がる。倒産寸前。絶望の中、彼はこう振り返ります。「私は、自分の小さな成功に閉じこもっていた。世の中の動きに注意していれば…」
それでも、彼は立ち上がります。全国を歩き、自分にできる新しいものを探しました。
そして出会ったのが、バドミントン。当時はまだ、成長途中のスポーツでした。木工技術が活かせて、小さくて高付加価値。雪国でも一年中作れる…「これだ」と米山は直感します。
最初はOEM供給という形で、地道に実績を積みました。しかし、またしても試練が訪れます。主要取引先のサンバタ社が倒産。再び、連鎖倒産の危機。
そのとき米山は決意します。「自分でつくって、自分で売る。ヨネヤマブランドで、独り立ちする」
この「ひとりゆく」精神。それは、小学校の恩師から贈られた言葉…「獨征(どくせい)」。他人に頼らず、己の道を行け。その教えが、彼を奮い立たせました。
さらに1963年、追い討ちをかけるように本社工場が火災で全焼。それでも、彼は止まりません。
突貫工事で3日で事務所を建て、1週間後には製品を出荷。その驚異的なスピードに、周囲は驚き、そして信頼を寄せました。
こうして、「ヨネヤマ」ブランドはバドミントン国内シェアNo.1へと成長し、やがて、現在の「ヨネックス」へと名を変えていきます。
米山稔が、人生で何度も繰り返してきたこと。それは、「転んでも、また一回り大きくなって立ち上がる」こと。
彼の生き様は、「越後の雪だるま」とも呼ばれました。どれだけ転んでも、また起き上がる。変化を恐れず、見つめ、学び、乗り越えていく。
―独りゆく者こそ、道を切り拓く。
そして、信じ抜いた者だけが、未来を変える。

私の履歴書
ヨネックス米山稔
負けてたまるか。
米山稔/著
日経BP/刊
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